大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和39年(オ)71号 判決 1964年5月12日

上告人

朝日アイ

右訴訟代理人弁護士

鮫島武次

被上告人

大阪府中小企業信用保証協会

右代表者理事

服部富士雄

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人鮫島武次の上告理由一、二、三について。

民訴三二六条に「本人又ハ其ノ代理人ノ署名又ハ捺印アルトキ」というのは、該署名または捺印が、本人またはその代理人の意思に基づいて、真正に成立したときの謂であるが文書中の印影が本人または代理人の印章によつて顕出された事実が確定された場合には、反証がない限り、該印影は本人または代理人の意思に基づいて成立したものと推定するのが相当であり、右推定がなされる結果、当該文書は、民訴三二六条にいう「本人又ハ其ノ代理人ノ(中略)捺印アルトキ」の要件を充たし、その全体が真正に成立したものと推定されることになるのである。原判決が、甲第一号証の一(保証委託契約書)、甲第三号証の一(委任状)、同二(調書)、甲第四号証の一(手形割引約定書)、同二(約束手形)について、右各証中上告人名下の印影が同人の印をもつて顕出されたことは当事者間に争いがないので、右各証は民訴三二六条により真正なものと推定されると判示したのは、右各証中上告人名下の印影が同人の印章によつて顕出された以上、該印影は上告人の意思に基づいて、真正に成立したものと推定することができ、したがつて、民訴三二六条により文書全体が真正に成立したものと推定されるとの趣旨に出でたものと解せられるのであり、右判断は、前説示に徴し、正当として是認できる。右判断には、所謂意思表示に関する法原則または法令の違背もしくは民訴三二六条の解釈適用の誤りもなければ理由そごの違法も認められない。

しかして、原審の証拠関係に照らすと証人中村一利、控訴本人の各供述は上叙推定を妨げる反証たりえず、訴外中村一利が上告人の印章を盗用した事実も認められないとした原審の事実上の判断もまた首肯できなくはない。

所論は、畢竟、原審の認定に添わない事実に立脚し、独自の見解に基づいて、前示甲号各証の成立の真否に関する原審の判断を攻撃するか、または、原審の専権に属する証拠の取捨判断を非離するものであつて採用できない。

よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。(裁判長裁判官横田正俊 裁判官石坂修一 柏原語六 田中二郎)

上告代理人鮫島武次の上告理由

一、上告人は訴外中村利一が上告人の印鑑を盗用して被上告人主張の借受及保証委託の各行為をしたものであり従つて甲第一号証の一、甲第三、四号証の各一、二は上告人においては全然不知のものであると主張し斯る書類が作成せられたのは右中村が上告人の印鑑を盗用捺印してしたものであると主張しているに対し、

第二審判決は甲第一号証の一、第三、四号証の各一、二の各書類中上告人名下の印影が同人の印を以て顕出されているから、民事訴訟法第三二六条により右各書類が直正に作成されたものと推定される、且つこの推定に対する反証はない。として上告人敗訴の判決を云渡したが、之は明かに判決に影響ある法令違反の判決であり、判決の理由に齟齬あるものである。

二、法令違反の点

原判決は本件について上告人が果して本件貸借及び保証委託を為したか否かを考察することなくイキナリ民事訴訟第三二六条を本件に適用している之れは甚だしい誤である。

(1) 民事訴訟法第三二六条は少くとも其の書類の作成者がそれに記名調印したこと又は之と同様の価値判断をすべきことがあつたときに適用せられるべきものであつて、例えば該書類を良く見ずして調印したとか、その内容について思い違いをしていたとか、或は欺かれていたとかの場合に適用すべきものであつて、本件の如く上告人が全然該書類に無関係であるのにそれらが成立したときの如き即ち上告人について有効なる意思表示なくして貸借、保証委託が形式上為されるときは民法の一般原則たる意思表示の原則及び民法第九三条以下の意思表示の法令に徴して慎重な判断を為すべきである。

(2) 本件事案は訴外中村利一が上告人の印を盗用して甲第一号証の一、甲第三、四号証の一、二の書類を作成したものであることは右中村利一の証言及び上告人本人の訊問により明白である。之に対し原判決は実体法的な判断をせずして形式上(書類の捺印―民訴第三二六条)から本件を判断したのは実体法を無視した法令違反の判決である。

或は曰く「証人中村利一の証言控訴人本人の供述も到底之を以て右の反証と認めれず」と判示したことは本件について原判決は上告人の印鑑を中村が盗用したか否かの点についても考案したが中村が印鑑盗用したと認め難いとして「右民訴第三二六条の反証と認められす」と云うのであればその点に関する判断を明らかにすべきであつて原判決は此の点に対する判断をしたとは見受けられないのである。即ち原判決は形式一点張りの判決である。

(3) 勿論民訴第三二六条はその立法趣旨として「偽造文書であるとの立証よりも偽造文書でないとの立証の方が困難であるから本条が設けられた」としているが、この場合においても該文書が偽造であるか否かの事実認定を必ず為すべきであつて、原判決の如く斯る認定を少しもせずして突然として民訴三二六条のみを以て判断し併かも之を覆すに足る反証がないと判示しているのは第二判決としては余りにも粗末軽卒である。

約束手形事件の如き文言証券、流通証券でさえも其の印鑑が盗用されて該手形が発行せられた場合此の手形が偽造手形として振出人に責任なき旨の判例が沢山あるのである。斯るとき真先きに民訴三二六条を適用するものとすれば斯る幾多の判例も学説も不当のものとなるであろう。

之等から考察しても本件判決は納得できぬものである。

之を要するに原判決は本件について上告人の意思表示の有無即ち有効なる法律効果の発生する意思表示が存在したるか否かにつき考察せず従つて民法の一般原則及び民法の意思表示に関する規定を無視して為した判決である。又甲第一号証の一、甲第三、四号証の各一、二に上告人の印が押捺されてある一事のみに気を奪われて此の文書が偽造であるか否かを考察せず直ちに民訴第三二六条を本件に適用しこれを覆す反証がないとして上告人敗訴の判決をしているのは意思表示に関する原則及び之に関する法令に違反し民訴第三二六条の解釈と適用を誤つているものである。且つこの誤りは判決の結果に重大な影響を及ぼすものである。

三、理由の齟齬

原判決は右述の如く法令違反であるばかりでなく判決の理由に齟齬あるもので実体法上の条文と訴訟法上の条文を混淆し、本件の如く上告人が実体法上の主張(中村が上告人の印鑑を盗用したこと、即ち斯る意思表示は無致であるこの主張)をしているのに対し訴訟法上の推定規定を第一の前提として判決しているのは判決理由に齟齬あるものである。又斯る物の考え方から本件の如き寔に明白な偽造文書(甲第一号証の一、二、甲第三、四号証の各一、二)について民訴第三二六条を適用し之を以て足りれとして之を有効な書類としているのである、従つて原判決は本件書類について民訴第三二六条を適用すべきであるか否かの判断(即ち理由)を誤つているものである。

次に之等の点につき説明する。

(1) 結果から見て民訴第三二六条の適用を受ける事案においても事案を判断するに当り右訴訟法上の条文を判断の前提として物事を考えるのと、先きに該書類が実体法上作成者の意思に基いて作成せられたか否かを考察し尚ほ疑義あるとき初めて民訴第三二六条を適用して判断するのとは判断の結果に大変な違いが生ずるものである。事案を判断する場合後者の物の考え方が正しいのであつて、本件の場合においても後者でなければならないのである。

然るに原判決は前者により事案を判断しているのであるからそれは不当であるばかりでなく判決理由として正しいものと云えぬのである。

即ち世の出来事に対し実体法的な審理と判断理由を考えることなく民事訴訟の規定のみを前提として之から物の全体を判断し去つたのは判決の理由として決して正しいものではないのである。

(2) 民訴第三二六条は飽くまでも推定規定であつてものを決定する規定ではない。

従つて飽くまでも実体法による審理を尽し之から事物を判断すべきであり、推定規定を以て事物を判断すべきでない。上告代理人は民訴第三二六条について右のような解釈を主張したい。

即ち原判決は本件について民訴第三二六条の適用を誤つているもので此の意味からして根本的に判決理由を齟齬しているのである。

(3) 殊に被上告人側としては甲第一号証の一、二、及び甲第三、四号証の各一、二の作成について何等上告人自身が為したものであるとか其代理人が為したものであるとかの立証もないのである。

之に反し上告人側の証言と供述によれば右書類は中村利一が偽造(中村が刑事責任を自白してまで)したものなること、従来の上告人の実印を中村が勝手に改印届までして偽造したものなることが認定せられるのに拘わらず民訴第三二六条に拘つて上告人に不利な解釈をしているのは間違いも甚だしいものである。

殊に原判決理由中「一部弁済の事実は被控訴人の自陳するところである」とは何を指すのか、之の自陳は何の裏付となると云うのであるか、原判決は物の考え方を誤つてしていることが此の一事を以てしても明白である。

上告人は一部弁済したことも之を認めたこともなく、それは訴外人中村の為したことであり上告人の関知せざるものである。従つて斯ることを自陳したこともない。

(4) 原判決は上告人と中村利一が且つて情交関係があつたので本件の判断を誤つた一つの原因となつたものと思われる?

しかし上告人と中村利一との情交関係は昭和三五年十月頃から初まり、同三六年六月に終つているのである。之に対して本件の所謂甲第一号証の一、甲第三、四号証の各一、二は昭和三四年九月二八日に作成せられたものであつて右情交関係と全く無関係であり情交関係の生ずる以前に作成せられたものである。当時上告人の経営するスタンドの客として来ていた中村利一が上告人の店舗の裏側にある上告人の水屋の中から上告人の認印を盗み出して之を使用したものである。

原判決は之等上告人中村利一との関係を誤認していることは情交関を〃同棲関係〃と記述していることからも知ることができるのである。

之を要するに原判決は民訴第三二六条の解釈と適用を誤つた結果之を以て判決理由の根幹としているのは其れ自体著しい「理由の齟齬」であり、且つ実体法上の判断即ち本件貸借及び保証委託契約が真実成立したものか又はそれが有効なるものとすべきかの判断をすることなく判決を為したのは判決に理由が欠しているものであつて全く不当であり幾多の判決例(之は枚挙に遑なし)に反する判決と云うべきものである。

依つて何卒上告人に有利な御判決を賜りたく茲に上告理由を陳述しました。

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